ちくしじ 第三回 「たんのうとリフレーミング」

5月に入り、過ごしやすい日が増えてきましたね。大教会でも坂道のツツジが満開となり、木々の新緑も美しさを増して、目を楽しませてくれます。

大教会ではおたすけの一環として、困窮者の方をお預かりしています。毎日様々な問題が起こりますが、その中にも入居者同士が仲良くなったり、別席を運んで下さる方が出てきたりと、嬉しい事も沢山です。

人をお預かりする中で感じるのは、人生で苦しむ方の多くが、子供の頃に虐待を受けていたり、親の愛情を受けて来なかったりと、壮絶な過去を持った方が多いという事です。

それによって考え方が偏ってしまい、物事をネガティブに捉えがちになってしまう。自分に自信が持てず、周りの人を信用できない。日常のちょっとした事で悩んでしまい、仕事を辞めてしまったり、人間関係から逃げてしまう。結果他人からの信用を失い、孤立してしまう。

つまりは「ネガティブな考え方」を持っているから、物事が続かない。負のサイクルから抜け出せない。そこに問題点があるように感じます。

私から見れば、大教会に来て相談できる相手ができ、就労ができ、貯金ができと、状況はどんどん良くなっているように感じますが、長年培ってきた考え方を変えるのは難しいようで、三歩進んでは問題が起き、二歩下がるような毎日を送っています。

彼らが物事をポジティブに捉え、生活を継続していけるよう、根気よく言葉を投げかけ続ける毎日の中で、「たんのう」という言葉の重要性を感じるようになりました。

今日は「たんのう」について、考えてみたいと思います。

たんのうというと、一般的には「苦しい中を耐え忍ぶ事」と捉えられがちです。しかし天理教HPから「たんのう」を引くと、

苦しい状況の中でたんのうするとは、単に歯を食いしばって我慢したり、泣く泣く辛抱しんぼうしたりすることではありません。これで結構、ありがたいと前向きに受けとめ、心を励まして踏ん張ることです。(中略)「たんのう」の原義は「足りている」ことで、「足りぬ」「足んぬ」と変化したもの、すなわち満足したという心の状態を指す。

とあります。

逸話篇の中に、こんなお話があります。

教祖は、奈良監獄署へ入牢・拘禁されたさい、便所掃除を命ぜられた鴻田忠三郎に、「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」と、お尋ねになり、忠三郎は「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」と答えた。これに対して、教祖は、「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。」と、お諭しになった。

これがお道の「たんのう」の考え方です。便所掃除をさせられていると考えれば、嫌な事でしかありません。しかし鴻田忠三郎さんは、神様の御用をさせて頂いていると捉えたので、ありがたいと「たんのう」する事ができた。

このようにものの捉え方を変える事を、心理学では「リフレーミング」といいます。

カメラは、フレーム(枠組)を通して、世界を見ますよね。

「不幸」というフレームを通して、人生の不幸な点にピントを合わせて見ると、

辛い仕事、少ない給料、腹の立つ人間関係…足りない、足りないという心(不足)になります。

しかし、このフレームを「幸せ」に変えて、幸せな点にピントを合わせると、同じ人生でも見え方が変わってくる。

仕事があって、食事が食べられてありがたい…満足、満足という心(充足)で捉える事も可能なのです。

リフレーミングとは、「Re Flame」する(フレームをやりなおす)こと。つまり物の捉え方を変える事で、物事は不足にも充足にも捉える事ができるのです。

『稿本天理教教祖伝』に、末娘のこかん様が、「お母さん、もう、お米はありません」と言ったところ、教祖は、

世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。(第三章「みちすがら」)

こかん様が、食べ物がない事に不安を感じている(不足)のに対して、教祖は「そもそも健康でありがたい(充足)」と、それぞれの捉え方が違うことに気付きます。

現代を生きる私たちについても、同じことが言えます。私たちはコンビニやイオンをはじめとした巨大な食糧庫に囲まれ、最新の医療技術をいつでも受けられ、更にはスマホによって世界中の人と繋がる事ができる。これは「ものすごく満たされている(充足)」と捉えることができるでしょう。

けれども多くの人は、自分はまだ足りない(不足)であり、自分は虐げられていると感じたり、自分に自信が持てなかったり、イライラしたり不安になったり、人生をネガティブに捉えがちです。

この「人生をどう捉えているか」という一点に、幸せになる人と不幸になる人の違いがあるように思うのです。

教えを学ぶ私たちに必要なのは、物やお金ではなく、不足から充足へと「考え方を切り替える」ことだと思います。私たちはすでに、十分豊かで満ち足りて幸福なのです。それを実感するだけでいいのに、ものの捉え方が上手くできない。そこに答えがあるように思います。

親神様の事を思えば、毎日は与えて頂いているものばかり。十分満足で結構であり、満ち足りている事が分かる。そうした「充足」からは「感謝」が生まれます。

たんのうとは、辛い状況を耐え忍ぶことではなく、捉え方を変える事(リフレーミング)によって前向きに物事を捉え、感謝を持って生きる事ではないかと考えるようになりました。

何十年も培ってきたものの見方を変える事は容易ではありませんが、その難しいことを成し遂げるからこそ、「運命(いんねん)」が「切り替わっていく」のではないかと感じます。

いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ 十七 14

心通りの世界においては、心を定め、心を切り替えていくところに、己の因縁が切り替わり、運命が変わる。

まだ足りないという「不足」の心から、今で十分満足という「充足」の心へ切り替えていく。それは決して諦めではありません。不足はその心通りに、足りない現実が引き起こされる。充足は満たされているその心の通りに、満足いく結果が生まれて来るのです。

有難いことに、私たちは教祖のひながたを通して、そうしたものの見方を教えて頂いているのです。

ありがたい毎日を、共に生きて行きましょう。

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