筑紫大教会の歴史

天理教について

天理教は、江戸時代の天保9年(1838年)、教祖・中山みきによって始められました。現在、日本国内を中心に、約1万6千余りの教会があります。信者数は200万人を数え、その教えは海外80カ国に広がっています。

天理教信仰の中心は、親神・天理王命(おやがみ・てんりおうのみこと)によって人間創造の地点と教えられる聖地「ぢば」です。奈良県天理市に位置し、天理教教会本部の神殿と礼拝場は「ぢば」を取り囲むように建てられています。

全国各地の天理教の教会は、この「ぢば」の方角を向いて建てられています。信仰者は教会から「ぢば」に向かって、人々の幸せと救いを親神様に祈ります。また、教会を拠点に、他者への奉仕を通じて地域社会に役立つ活動を行っています。

親神様は、人間が心を澄まし、仲良くたすけ合いながら暮らす「陽気ぐらし」世界を望んで、人間と自然界を創られました。そして、教祖・中山みきの口を通して、その真実を伝え、私たち人間の真の幸福へとつながる確かな道を教えられたのです。

天理教は、世界中のすべての人々が、親神様に守られ生かされて、仲睦まじくたすけ合う「陽気ぐらし」世界の実現を目指しています。

筑紫大教会のおこり

江州の蚊帳売商人、堤丑松は毎年春になると沢山の蚊帳を携え、九州に来訪していました。当時、北部九州の一角、福岡県筑豊地域は石炭ブームで活況を呈しており、堤は明治24年4月、福岡県直方町の岩田屋旅館に止宿し、行商のかたわら病人を見つけては「おたすけ」をしていました。

直方新町には福原惣太郎(後の筑紫4代会長、当時24歳)の妻、ふみの実家井上家があり、父の次右衛門は風呂屋を営んでいました。ふみの他に長男久吉、次男林太郎がありましたが、この林太郎は、明治24年4月上旬、腸チフスに罹り、今にも命を焼きつくすかと思われる程の高熱が続いていたのです。次右衛門はじめ家族の心配は一方でなく、八方に手を尽くしましたが、病勢は悪化するばかりでした。この時、岩田屋の女主人お滝より、「近江から来ている蚊帳売りの堤さんに吹いて貰うたら、どんな病でも直ぐ治る」と聞いて、堤におたすけを願うことにしました。

堤は少年に「おさづけ」を取次ぎ、それが終るや口に水を含んで病児に吹きかけました。父親は高熱の子供に水を吹きかける光景を見て不安に思いましたが、さらに堤はその病児を風呂に入れさせたのです。

果して、風呂から上がった少年の頗には紅がさし、熟もすっかり下がって、精気が甦りました。これには家族も親戚も皆驚き、十数名の人達が堤丑松を囲んで神様の話を聞く事になりました。

こうして、伝道者 堤丑松によって道の火が点ぜられるや、瞬く間に教えは伸び広がり、筑紫の道の基点が確立されることになったのです。

(改定・天理教辞典〈教会史篇含〉より抜粋)

大正12年 青年会筑紫支会巡回公演記念
昭和2年夏 天理教満鮮視察団一行
大正11年5月 福原惣太郎会長婦人ふみを中心に
大正11年5月 客殿建築用材前での役員一同と
五代会長 福原一正、ちとせ 夫妻
昭和2年11月 福岡市公会堂に於ける天理教青年会福岡県大会
昭和44年11月16日 筑肥の大演習に大元帥陛下御臨幸奉迎の記念に
昭和34年4月 福原ふみ88才米寿の祝
曽孫正郎と遊ぶふみおばあちゃん
明治40年11月 天理教会組合事務所の常議員
六代会長 福原和太郎、さよみ夫妻
昭和19年新築 筑紫大教会の正面
大正14年1月18日 筑紫会総会 -中央壇上は惣太郎会長-
明治29年建築 旧神殿正面
スクロールできます
年号内容
明治24近江の布教師堤丑松による霊救に接し、福原惣太郎等入信。直方に信者の講が出来る。
井上久吉、藤井貞平等5名が河原町を経て初めておぢばへ参拝。河原町に信徒名簿提出。松尾徳之助入信、6月におぢば参拝。
斯道会信徒名簿に第365号(直方新町講)、第366号(直方外町講)、第367号(木屋瀬講)の3つの講番が初めて登録される。
能美賢一郎入信。
25講社が、鞍手、遠賀、宗像、企救の4郡に結成され、斯道会に登録される。
26講社を総連合し筑紫連合集談所を設置す。
鞍手郡木屋瀬村大字木屋瀬894番地に筑紫出張所を設立。初代所長、能美賢一郎。
28木屋瀬784番地の地所1反7畝19歩を購入。神殿建築のお願。
2代所長に森井治三郎就任。
29神殿落成鎮座祭執行。
333代所長に能美信義就任。
筑紫出張所より支教会へ昇格、部内34カ所。
34福原惣太郎一家が教会へ住み込む。続いて7家族が住込む。
40木屋瀬町の大火発生、町の大半を焼失。神殿・事務所が奇蹟的に残り話題となる。
42筑紫支教会より分教会へ昇格、部属42カ所。
44朝鮮布教が実り、教会が出来始める。
大正5北海道十勝のクテクウシ(現鹿追町)の原野の開拓に38戸70余名が参加。
8筑紫分教会4代会長に福原惣太郎就任。
15教祖40年祭。倍加運動の提唱に応え3倍加を達成。116カ所を新設し176カ所となる。
昭和55代会長に福原一正就任。
6湖東大教会より分離し中教会へ昇格、153カ所。
丹波市町田部120番地に3千坪余の詰所用地購入(昭和10年4月27日筑紫詰所開所式)。
8筑紫中教会より大教会へ昇格、212カ所。
15朝倉分教会(62カ所)を分離昇格。
16西海分教会(83カ所)を分離昇格。
19木屋瀬神殿落成鎮座祭。
286代会長に福原和太郎就任。
36隣接の酒造場の土地、建物を買収。信者詰所・食堂・駐車場を増築のお願。
607代会長に福原正郎就任。
平成2直方市頓野3090番地に一万坪程を購入。
7信者棟が落成、移転を行う。
11神殿落成鎮座祭執行。